tsuno流野球論

NPBのデータをもとにした、投手についての考察記事を主に書いていきます。

アマチュア野球に潜む体育会系という名の闇とその深層について。つづき。

 

鈴木大地スポーツ庁長官のインタビュー記事より。

僕は高校野球の球数制限・投手起用について賛成という立場ではありますが、この問題は本来もっと深いものであると改めて考えています。

1.ボーイズリーグ(リトル・シニア)段階での酷使と大人の事情。

これについては

 

tsuno2no.hatenablog.com

 この先日書いたブログでも学校側・指導者側・親御さん側が三者三様の思惑と目先の結果、売名やメンツを重視しているのではないか?という趣旨の見解を書きました。

結果、というのもなんですが小学校・中学校の段階で肩やひじなどどこかしらの部分に不安を抱えるプレーヤーが相応にいる、ということが現実。

プレーヤーにとって一番堪えるのはプレーができないこと、もしくはそれを隠して悪化させたり本来であればできるプレーに制限がかかってしまうこと。

それらを言いやすい環境にすること、もしくは指導者側が無理にでもストップをかけ、可能性を狭める選択肢を取らないこと。こういった一部の選手へ大きな負担を強いらないようにする、ということが指導者側としても大事ですしその中でどのようにして勝つか、ゲームを組み立てていくかを考えることこそが重要ではないでしょうか。

 

続いて

2.投手の専門化と選手間における能力格差

勿論勝つためには能力の高い選手を使わざるを得ない、というのは真理ではありますが、選手間におけるレベルの差(選手層)を厚くするということをおろそかにしていることもまた一部の選手の酷使につながるものと考えます。

ひとりひとり能力差があるのは自然なことではありますが、肝心なのは層を厚くするということ。

ケースバッティングにしてもランナーは大体控えでレギュラー組が打席に立つ、なんて練習を学生時代してましたが、試合においてそんなケースはあり得ない。

ランナーもまたレギュラーで試合を想定した打順を組み、ランナーもまた打順と連動させる。バッターとランナーで意思疎通を図りどのように仕掛けを入れるかはグラウンドにいるプレーヤーが選択すること。ランナーコーチもまた選手同様、試合で立つ選手を置けば、打球判断、投手の良し悪しや守備を考慮した走塁の指示などを測る目を養うことができます。

無論、投手も打席に立ちますし継投がゲームの中で存在するのも事実。また、体調不良や調子の良し悪しでメンバーに変化が生まれることも当然存在するとなると数人は複数ポジションをスライドしながら、バッターやランナー、コーチャー、ネクストサークル等々で数人抜けたポジションに各々の選手を入れ実践的なプレーと雰囲気を練習という名の試合で感じさせること。投手もポジションを動かしつつ複数人が投げられる状態を作るということ、そして捕手もまたバッターとして立つときはほかの選手が動いてできるようにするということが大事でしょう。

高校野球の場合においては甲子園ではベンチは18人。その中で全選手が複数ポジションを守ることができ、核となる選手を要していてもそれを抜きでも戦うことができる集団を作ることがまずは必要かと。

 

「まとめ」

高校野球においては、限られた枠の中でベンチを含めて不測の事態に対応できるよう日頃から準備を怠らないことと選手たちも浮足立たないように練習のなかで行う試合でいろいろなケースを体験させることが必要かと。

それ以前のリトル・シニア・中学部活などにおいては親御さんへの負担の大きさ、思惑を指導者を招へいする学校や組織、そして短期的結果を求めるがために勝利至上主義に走る指導者。プレーヤーを置いてきぼりにしていては大事な時にツケが回ってくるということを考えないといけません。

そのためにも、常に練習の中で試合を経験させてモチベーションを保てるよう配慮することやその中で感じたことを自主的に見つけてトレーニングする時間を設けること。

選手層を厚くするということは多くの選手にチャンス・練習機会を与えて課題を見つける時間を作るということ。投手にしてもどのようにやりくりするかは、全員がストライクを取ることができる練習も必要なのでは。投手の動きは投げるだけでなく守備もあるわけですし、格好の守備練習の機会にもなると思うだけに。左投げでセカンド・サード・ショートをさせて投手をさせるときに備えて足運びや送球などの実践的な守備練習を行うことも必要と考えます。

待遇もそうだし、すべてにおいて中学・高校・大学・社会人とカテゴリーが変わればまた一番下からのスタートとなる以上、その準備(雑用とかを下級生に任せふんぞり返るような立場をしてたら次の年に困るだけ、ということ)を各カテゴリーでさせてあげることも重要ではないでしょうか。

 

いまだに根強く残る体育会系の習慣も、場所が変わればすべて基本的には最下層から。

そういった待遇の差がなぜ残っているのか、自分には不思議でなりません。一分一秒でも長く・密度の濃い練習をしたいのならば率先して手伝ったり指示をするほうがより効率的ではないのでしょうか?

 

そうして育ってきた世代が指導者になっているのだから変わることはないでしょうが、変わらないままであれば野球の未来はそう長くはないでしょう。