tsuno流野球論

NPBのデータをもとにした、投手についての考察記事を主に書いていきます。

MLBのホームラン増について考える。2

 

tsuno2no.hatenablog.com

 過去にこのような形でMLBのホームラン増加についてのアプローチをしていきましたが今日こんな記事を目に。

 

実態はどうかわかりませんが感触として飛びやすくなっている部分もあるのではないでしょうかね。過去のボールと今のボールの中身を解剖し反発係数や空気圧など、飛距離に関係する要素をもっと調べる必要があるとともに結果をしっかり明示することが信頼を回復するために必要なことかと。

 

さて、そんな中でもバーランダー含めきちんと結果は残している投手も。

今与えられているこの状況の中でどう結果を残していくか、投手が今持っている武器をどう使っていくかより考えていく必要もあるのでしょう。

 

そんなMLBの飛ぶボール、対策としてはやはりいかにして打者に強いスイングをさせないかが重要でしょう。ボールが手から離れれば打者有利になるのが野球。ボールは見逃す、ストライクは捉える。そういったシンプルなことをさせず、奥行き・高さ・コーナーワークなどでどうやってミスを誘発するかを考えるのが一番。

スピードボールを持っているのであればそれは大きな武器、うまく生かすこと。

スピードボールがなければないなりに数種類の軌道の異なる緩い球を使ったりボールゾーンを広く散らしたりしてストライクゾーンの目付けを壊していくことが重要では。

打者にしても、本塁打増の裏で三振も増加している以上、どのようにバットに当てさせないかも大事。芯を外してもフェアゾーンに落とされるのでは難しいですが、それならば人のいるところに打たせるよう打者を術中にはめていかなければいけない部分もあるでしょう。

 

どのようにして打者を抑えていくかは、投手のスタイルでそれぞれ異なると思いますが、共通するのは打者を混乱させてスイングをさせないことでは。

難しいですがこれからMAX140キロ弱の投手でもMLBの打者たちを手玉に取るような選手が出てくると嬉しいですしその選手のピッチング内容は気になるところでしょうね。

ピッチングもバッティングも機械的動作の集まりなのか?

僕自身はあまりこの意見を肯定できないところでもあります…が、極論はどちらも機械的な動作(スピード・距離感を瞬時に計算し正確に実行する)が一番結果に結びつきやすいです。

そういった機械的な動作を完璧にさせないために投手はリリースに差をつけたり高低・奥行きを使った配球で打者の目を乱すことをして、打者は強いスイングや読みで配球を乱したり打ちやすいボールを投げさせるよう誘導するという駆け引きが存在するのではないでしょうか。

フォームの乱れや心理的な変化が結果に影響するところは必ずしもあるので、それらがもしなくなったとしたら間違いなく安定感は増すでしょう。

 

結論とすれば、野球における独立した各行為(投球・打撃・守備)における動きはそれぞれ機械的であるほど安定する、と考えられます。

もちろんこれはよい意味だけでなく悪い意味でもあるのですが。

叱ることの意味、そして指導者の役割とは。

近頃話題になったプロ野球における公開説教とやら。

正直、怒る必要なくない?結果は自分の評価や年俸、クビや立ち位置に関わるだけなのだから。

監督や指導者はグラウンドに直接介入できるわけじゃないし、オーダー・ベンチ入りメンバーを送り出した地点で仕事は終わり。あとは現場に任せるのみ。そして勝てば選手のおかげで負けたら送り出した自身の責任。これが指導者としての責任なのでは。

そうして信頼して送り出した選手に文句を言うなんてことは、自分自身の怠慢に他ならないかと。試合に臨む前段階でそれぞれのことを徹底できていなかったことがすべて。

 

無論これはアマチュア段階、それどころか社会人全般に言えることだと思いますが、どこであっても自分のことを棚に上げて叱れば伸びる、だとか怒られてこそ一人前みたいな風潮も少なからず存在する現状。叱られて伸びる、と言っている人も中にはいますが、そんな人たちは褒めたり良いところを伝え、より良くするための手段を提示してみれば叱るよりも数十倍ストレスなく伸びることができる、と考えます。

ただ叱る、怒ったり手をあげるなんてことをするのは指導者の力不足。

伝えたいことや自分の意図していることが伝えきれないから使う手段、これを使わざるを得ないということは自分自身が相手に教えられるほどその行為・流れを理解できていないということと同義。人を指導すること、方向を指し導くことがどれだけ神経を使うのか、時間をかけて辛抱強く行うのか。それを理解せず目先のこと、今一瞬さえできればよいなんて考えた瞬間、その人は指導者として力量がないといえるのだと思います。

 

製造業だとか一般社会においても目先の結果が重視される近年、「人を育てる」ということをおろそかにした結果、指導者の指導力不足如実に表れ、中小企業を中心とした人材不足が進んでいるのでは。目先の結果だけを重視して、ただ言う通りに動くロボットを作るような感覚で人を育てることしかできない中間職が残り、考えて作業する人たちはどこかしらで悲鳴をあげて壊れてしまう。これが現状なのでは。

 

学校などにおいても、いじめという名の青少年集団による多くの犯罪が蔓延しているのもまた親御さんの「人を育てる」力の不足では。自分の子供ですら全うに育てられないような親御さんが他人を育て導くことができるわけがない。

改めて、「人を育てること」を考える必要があるのではないでしょうか。

人は有限、かつ徐々に減少・高齢化しつつあります。その中でいかにして限られた「人」という資源を大切に、寄り添いながらともに育てていくのか。今だからこそ未来を担う世代を今の現役世代・高齢世代が支えて希望を持てるような未来を導くことが必要なのでは。

投手の球速アップと怪我は結びつくか

近年、アマチュア野球などにおいても投手の怪我や慢性的な痛みを持つ選手が多く感じるようになりました。自分が学生だった時にも肩を壊したり腰に故障を抱えていた選手がいましたが…リトル・シニアの段階の年齢でも故障のリスクは年々増加しているように感じます。

要因として個人的に感じることは基礎体力が不足している状態での高度な作業ではないか、と推測します。

例えば投球動作。練習・キャッチボールや遠投を含めた球数制限を設けるのもですが、投球に使う部位を全体的に鍛えているか。早い球を投げることや球数を投げることに耐えうる筋力・柔軟性・バランスを備えているかということも大事なのでは。

投球動作の場合、上半身であれば指先・手首・肘・肩・腰・背中、下半身は膝・内転筋・股関節などといった様々な部位に負担がかかります。言ってしまえばほぼ全身。

それらの力の入れ方、バランスを考えつつ身体への負担を考慮してひとつひとつの動作を行うことが肝心だと思います。

 

プロであっても常に100%を出し続けていればなにかしらの形で悲鳴をあげかねません。球数だとかではなく、どのくらい力を抜くことができるか、怪我や身体への負担を極力軽くしたうえでその一つ一つの動作をこなすことができるかが重要。

 

今の野球は常にベストを出し続けなければいけないような環境であると感じますし、投手であれば「より速く・より強く」を求めている印象があります…が、そんな選手は長持ちしません。適度に100%を出す必要はあるかもしれませんが、いかにして楽に、簡単に自分への負担を軽くしつつ抑え続けることができるのかを求めることが必要なのでは。

 

指導者や選手の周りの方々もまた目先の結果ではなく、結果の中に存在する一つ一つの過程にも目を向けていかないと今の野球における様々な問題は全く解決しないと思います。

野球「で」勉強をしよう!

マチュア野球含めて、野球だとかなにかしらができれば勉強はおろそかであってもよいという考え方もあるかと思われますが実際のところは

「勉強ができなければスポーツやそれぞれの分野においても結果が残せるわけがない」

といえるのではないでしょうか。

 

野球で例えるならば

・打率や防御率等各種割合の計算は算数。

・スイングスピードと投球のスピードによる打球速度、当たった際のバットの面で導かれる打球方向はそれぞれ力学や角度で求められる。

・サインや意思疎通といったものは国語などの物語・説明文においての筆者に気持ちを読み取ること。

 

 

上記はあくまで一例でありますが、野球というスポーツの中にもまた学校などで履修する基礎的な知識が必須。もちろんなくてもできますが、突き詰めていくため、また感覚でプレーしている際にうまくいかなかったときの引き出しとして自分を助けるものであることに間違いはありません。ただ知識を持っているだけではなく、必要な時、適切な時に必要な知識を引き出すことのできるようにすることが肝心なのですが。

 

野球は「間」の多いスポーツではあれど、ボールをもってからの一連のプレーは一瞬かつグラウンドの選手たちに全て委ねられている、という状態。だからこそ自分やチームを助けるためにも知識の引き出しを増やして整理していくことは非常に大切なことであると考えます。

 

最近の選手たちは非常に考えることが多く、自分自身でいろいろなものを見て調べたりするということを積極的に取り入れている印象があります。正直、野球の知識量と技術は今の選手のほうがあるのではと思います…が、その知識や技術に耐えうる体力・持続力やほかのスポーツと結びつけるような知識や引き出しを持っているかといえば「?」を感じてしまいます。

ただ速いボールを投げる技術を持っていてもそれに耐えうる体力・筋力・バランスを持っていなければ早々に身体をつぶしてしまいかねません。効率云々を説いていても、基礎体力や柔軟性、身体の使い方などの引き出しが不足しているのでは結局遠回りをするだけであるといえるのでは。

 

野球のプロになるのは社会人やNPB独立リーグからでも充分。それまでの準備期間で他のスポーツを含めいろいろな可能性を模索しつつ、引き出しを広げていくことが基礎体力増加にもつながり特定のスポーツのみをこなすよりも近道になるのではないかと思うのですが…なぜ特定のスポーツに早々に絞るのか、個人的には疑問に思います。

アマチュア野球に潜む体育会系という名の闇とその深層について。つづき。

 

鈴木大地スポーツ庁長官のインタビュー記事より。

僕は高校野球の球数制限・投手起用について賛成という立場ではありますが、この問題は本来もっと深いものであると改めて考えています。

1.ボーイズリーグ(リトル・シニア)段階での酷使と大人の事情。

これについては

 

tsuno2no.hatenablog.com

 この先日書いたブログでも学校側・指導者側・親御さん側が三者三様の思惑と目先の結果、売名やメンツを重視しているのではないか?という趣旨の見解を書きました。

結果、というのもなんですが小学校・中学校の段階で肩やひじなどどこかしらの部分に不安を抱えるプレーヤーが相応にいる、ということが現実。

プレーヤーにとって一番堪えるのはプレーができないこと、もしくはそれを隠して悪化させたり本来であればできるプレーに制限がかかってしまうこと。

それらを言いやすい環境にすること、もしくは指導者側が無理にでもストップをかけ、可能性を狭める選択肢を取らないこと。こういった一部の選手へ大きな負担を強いらないようにする、ということが指導者側としても大事ですしその中でどのようにして勝つか、ゲームを組み立てていくかを考えることこそが重要ではないでしょうか。

 

続いて

2.投手の専門化と選手間における能力格差

勿論勝つためには能力の高い選手を使わざるを得ない、というのは真理ではありますが、選手間におけるレベルの差(選手層)を厚くするということをおろそかにしていることもまた一部の選手の酷使につながるものと考えます。

ひとりひとり能力差があるのは自然なことではありますが、肝心なのは層を厚くするということ。

ケースバッティングにしてもランナーは大体控えでレギュラー組が打席に立つ、なんて練習を学生時代してましたが、試合においてそんなケースはあり得ない。

ランナーもまたレギュラーで試合を想定した打順を組み、ランナーもまた打順と連動させる。バッターとランナーで意思疎通を図りどのように仕掛けを入れるかはグラウンドにいるプレーヤーが選択すること。ランナーコーチもまた選手同様、試合で立つ選手を置けば、打球判断、投手の良し悪しや守備を考慮した走塁の指示などを測る目を養うことができます。

無論、投手も打席に立ちますし継投がゲームの中で存在するのも事実。また、体調不良や調子の良し悪しでメンバーに変化が生まれることも当然存在するとなると数人は複数ポジションをスライドしながら、バッターやランナー、コーチャー、ネクストサークル等々で数人抜けたポジションに各々の選手を入れ実践的なプレーと雰囲気を練習という名の試合で感じさせること。投手もポジションを動かしつつ複数人が投げられる状態を作るということ、そして捕手もまたバッターとして立つときはほかの選手が動いてできるようにするということが大事でしょう。

高校野球の場合においては甲子園ではベンチは18人。その中で全選手が複数ポジションを守ることができ、核となる選手を要していてもそれを抜きでも戦うことができる集団を作ることがまずは必要かと。

 

「まとめ」

高校野球においては、限られた枠の中でベンチを含めて不測の事態に対応できるよう日頃から準備を怠らないことと選手たちも浮足立たないように練習のなかで行う試合でいろいろなケースを体験させることが必要かと。

それ以前のリトル・シニア・中学部活などにおいては親御さんへの負担の大きさ、思惑を指導者を招へいする学校や組織、そして短期的結果を求めるがために勝利至上主義に走る指導者。プレーヤーを置いてきぼりにしていては大事な時にツケが回ってくるということを考えないといけません。

そのためにも、常に練習の中で試合を経験させてモチベーションを保てるよう配慮することやその中で感じたことを自主的に見つけてトレーニングする時間を設けること。

選手層を厚くするということは多くの選手にチャンス・練習機会を与えて課題を見つける時間を作るということ。投手にしてもどのようにやりくりするかは、全員がストライクを取ることができる練習も必要なのでは。投手の動きは投げるだけでなく守備もあるわけですし、格好の守備練習の機会にもなると思うだけに。左投げでセカンド・サード・ショートをさせて投手をさせるときに備えて足運びや送球などの実践的な守備練習を行うことも必要と考えます。

待遇もそうだし、すべてにおいて中学・高校・大学・社会人とカテゴリーが変わればまた一番下からのスタートとなる以上、その準備(雑用とかを下級生に任せふんぞり返るような立場をしてたら次の年に困るだけ、ということ)を各カテゴリーでさせてあげることも重要ではないでしょうか。

 

いまだに根強く残る体育会系の習慣も、場所が変わればすべて基本的には最下層から。

そういった待遇の差がなぜ残っているのか、自分には不思議でなりません。一分一秒でも長く・密度の濃い練習をしたいのならば率先して手伝ったり指示をするほうがより効率的ではないのでしょうか?

 

そうして育ってきた世代が指導者になっているのだから変わることはないでしょうが、変わらないままであれば野球の未来はそう長くはないでしょう。

高校野球改革とアマチュア野球に潜む大きな壁を考える。

 

 

鈴木大地スポーツ庁長官が高校野球についての改革案を提示されたことについて。

過酷なスケジュールや身体を壊していてもノーといえない現状を打破するのにもよいと思いますし、ユースを作り子供たちに選択肢を提示することは大きなプラスになると僕は考えます。

 

しかしながら、これに反発するであろう人(組織)も多くいるというのもまた想像できてしまいます。

マチュア野球の勝利至上主義はそもそも子供が主導ではなく、下手すれば指導者主導ですらないのがまた難儀なところです。

一部はプレーヤーよりも親御さんが、または部活動等のアピールのために学校側が、実績アピールのためにシニアが…というように、子供を利用して様々な思惑が渦巻いています。

少年団、部活動とプレーヤー、一父兄として携わった時期もありいろんな人を見てきた中で様々な思惑と勝利至上主義の一端を自分自身も感じましたが、結局のところ

「なんで、プレーヤーがグラウンドで勝負する権利のない人間に振り回されなきゃいかんの???」

ということ。むしろなぜそれを指導者や大人が疑問に思わないのか。

 

勝利至上主義を考える大人が多数派である限り、子供たちへの悲劇はなくならないでしょう。

 

どうにかして、自分は少しでもこういった負の流れを変えることができれば、と思います。